国頭村(くにがみそん)の山
宜野湾ヒャーカーガー
昔のカデシガー(糸満市)
明治時代から昭和の初めごろ、那覇(なは)では「水売船(みずうりぶね)」という船が、飲み水を売りにきました。1933(昭和8)年に水道が引かれるまで、井戸(いど)が少なく水不足になることが多かった那覇(なは)では、山下町にある「落平樋川(ウティンダヒージャー)」の水を売りに来る船を利用していたといいます。この船は那覇(なは)の名物でもあり、琉歌(りゅうか)にもよまれるほどでした。
戦後の水道事業
1958(昭和33)年には、米国民せい府によって琉球水道公社がつくられ、水道も整えられるようになりました。
ところが、1963(昭和38)年は、雨がいつもの年の半分にも足りないほどだったため、大変な“かんばつ”におそわれました。
それは、今まで米をつくっていた農家を、サトウキビづくりに切りかえさせるきっかけともなったほどで、そのため、この年から沖縄では急速に水田がへってしまいました。
しかし、1972(昭和47)年、沖縄が本土にふっ帰してからは、国によるダムの開発が進み、水不足はだんだん少なくなっていきました。雨の少なかった1981(昭和56)年には記録的なだん水が起こったものの、1994(平成6)年4月からは一度もだん水はありません。
げんざいの沖縄では、99.9パーセントに水道が引かれるほどになっています。
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